全くエラシコができなかった私と、できるようになるまでの道のり②

エラシコを習得するため、ロナウジーニョエラシコのスロー再生を穴が空くほど見続けた私の続きだ。

 

 

私にとって、エラシコは謎の技だった。

普通ボールを蹴ると、蹴った足よりボールは体から遠い位置にいく。

ところがエラシコはどうだ。ワンタッチ目でアウトサイドでボールの中心を蹴れば、ボールは足の軌道の延長線上にコロコロと転がって行くはずだ。

しかし、ロナウジーニョは違う。アウトサイドで蹴った次の瞬間に同じ足のインサイドにボールが当たるのだ。

 

こんな不思議な話はない。

足がボールをすり抜けているのか、もしくは足がボールに触れた瞬間に足の振りをはやめてボールの速さを追い抜いているか。

サッカーボールのトンネル現象なのか。そうなのか。

 

動画を見続けた結果、どちらも違うことがわかった。

 

エラシコを行うには、蹴り足について2つの関節を動かせばよいことのだ。

⓪両足が接地、ボールは蹴り足のやや外側。

①蹴り足の膝を曲げたまま固定し、蹴り足を浮かせて股関節を外転させる。

②足のアウトサイドにボールがあたる。

ここで、ボールの速さは股関節を外転させて生まれた足先の速さと同じになる。

④つぎに、股関節の外転が進む間に膝の固定を解除して伸展させる。

すると、

ボールの速さ=股関節外転で生まれた足先の速さ

に対して、

足先の速さ=股関節外転で生まれた足先の速さ+膝伸展で生まれた足先の速さ

で進む。

ここで、足先がボールを追い越すことになるのだ。

⑤股関節の外転と膝の伸展が終わり、地面に着地する寸前の蹴り足インサイドにボールが追いついてぶつかる。

⑥足を右斜め前に踏み込んだ時には、ボールは左斜め前に転がっている。

エラシコの完成だ。

 

上の説明では、股関節の外転と膝関節の伸展の2つで説明した。

だが、原理的には二つの関節を使えばなんだっていいのだ。

腰の旋回+股関節外転

腰の旋回+膝伸展

股関節外転+股関節内旋

だから、プレーヤーやスタイル、シーンによって様々なパターンのエラシコが存在することになる。

ロナウジーニョは色々なエラシコが使えるし、3つ以上の関節を平気で動員してくる。一回のエラシコ

首の旋回→上半身の捻り→腰の旋回→股関節外転→股関節内旋&膝関節伸展

という全身エラシコをしてしまうので、尋常ではないスピードやキレや切り返しの深さが生まれディフェンスはひっかかってやむなしとなる。上体から生まれた旋回は下半身に連動するほどその力が増して行くため非常に高負荷な動きとなる。

できるできないは置いておいて、私は無理して怪我をしないようにしようと思った。

 

足がボールを追い越す理屈はわかった。

次は、ボールコントロールだ。

足がボールを追い越せるようになったところで、足が向かう方向とボールが向かう方向が違えばなんの意味もない。ただ、アウトサイドでボールを蹴っただけの人になる。

 

ここからは各々の感覚によるところが大きいかもしれない。一番やりやすいやり方でやるのが一番だし、そう感じる自分の感性を大事にするべきだ。

 

感性に期待できない私は、動きの逆算をして対策をとった。

 

目指すゴールは

④右脚が右斜め前に踏み込まれた。ボールは左斜め前に転がって行く。

↑だから、こうなるためには

③膝がのびきった右脚が踏み込まれる直前にボールが右足インサイドにぶつかる。

↑となればよく、そのためには

②膝を伸ばす。と同時に足がボールを追い越す

↑必要があり、その前には

①膝がまがったまま踏み出された右足のアウトサイドにボールがあたる。

という動きの始まりがある。

 

それぞれの工程を、自分で制御できるか考えて見た。

④はコントロールできない。結果だ。

③もコントロールできない。これもただの結果でしかない。

②膝をのばす選択ができる。

①ボールの初期位置、踏み込む方向、速度、膝の曲げ角を自分で決めれる。

 

なんということだろうか。

自分で制御できるのは①②しかない。

大半の選択肢は①でのみ与えられている。

エラシコはその動作を始めた瞬間に、その結果を内包しているのだ。それらしく言っただけだ。

軸足と蹴り足とボールの位置、踏み込む足の距離、速度、膝の曲げという各パラメータを変化させることで、スムーズなエラシコを生む条件を探していけばいいということがわかった。

あとは簡単だ。できる限り遅く、できる限り小さく、そしてリズムよく気持ちのいいエラシコが生まれる①の条件をコツコツ探せばよい。

 

私のエラシコ発動条件は次の2つだ。

・軸足つま先から20cmの位置にボールがある。

・右足は、左足よりやや左にあり、アウトサイドがボールの左手前に触れる寸前だ。足からはほどよく力が抜け、膝が軽く曲がっている。

 

あとは、右斜め前に上体を倒せばよい。

すると、倒れこむ上体をささえようと右足は右斜め前に行こうとする。

行こうとする足のアウトサイドにボールがあたる。

右足が踏み込まれる前に、グッと膝を伸ばす。

グッと伸ばした足のインサイドにボールがやってきてぶつかる。

 

そのあとの全ては、結果として起こる。

大事なのは、最初の発動条件を整えてあげることだ。

あとは勝手に体が動いて、結果エラシコになっている。

 

トライ&エラーを繰り返し、そんな自分のエラシコ発動条件を探してみるのはとても楽しいものだ。

 

 

 

「上手くなりたかったら練習しろ」の落とし穴

忍耐、鍛錬、謙虚、勤勉、克己・・・・

日本には、素晴らしい美徳の数々がある。

農耕の歴史、仏教・儒教、江戸の侍、、日本人の美徳の起源はどこだろう。

非常に興味深いテーマだが、このお題はまた次の機会に考えたい。

 

今回は、サッカーにおける実践へのアプローチについて考えて行く。

タイトルの話に戻るが、私がサッカー少年だった頃は、試合に勝てなかったら「修行が足りない」、「練習不足」と反省していた。

そして自分なりに真面目に「練習」した。だがまた負ける。

行き着くところは「才能がなかった」「センスがなかった」だ。

おそらく学校や家庭でそういう教育を受けていたのだと思う。

今考えると残酷な話だ。私にセンスがないのは特に否定はしないが。

苦しみ、怪我をするもしくは挫折を味わい敗北感を抱えたままサッカーから手を引いた私のような少年は少ないのではないだろうか。

 

勝敗を決めることはスポーツそのもの本質に直結する。

殺し合いをせず、同じ土俵で他者と優劣を決めることができる非常に平和で優れた仕組みだと思う。天才だ。昔の人に感謝せざるを得ない。

だから勝者は栄光を味わって然るべくあり、その逆もまた然りだ。

一方、人間は性別・人種・年齢・環境によってその運動能力にそれぞれの個性があるのも事実だ。

、、それは才能と行っても差し支えないだろう。個々の人間には歴然とした差がある。

 

つまり、勝ちは大事だ。こだわるべきところであり、目指すべきところだし、勝った先にしか見えないものもたくさんある。

しかし、スポーツを通して得られるものは勝利の栄光だけではない。

心身が躍動する瞬間には何物にも変えがたい喜びがある。

思ったことができる。体で表現できる。この喜びは大きい。

つまり、上手いと楽しい。

 

上手くなるにはどうするのか。工程は簡単である。

 

0.上手い自分をイメージできない自分がいる。

1.上手い自分をイメージする。

2.イメージを体で表現する。

 

この工程1,2を習得するために練習をする。

ここでいう練習とは、2つある。

 

練習①:工程0から1を埋める『イメージ力を高める頭主体の練習』

練習②:工程1から2を埋める『体の表現力を高める体主体の練習』

 

である。

ちなみに、サッカー少年団所属の私少年は、そのどちらにも該当しない練習のための練習を行っていた。

集中して、意識して、真面目に、真剣に、忍耐強く、、、

そして、また負けていた。

おじさんの私があの時にもどれたら、少年の私に、『頑張ってるね、効果は薄いけど。』と優しく応援してあげたい。

 

練習①については次回。

 

 

 

全くエラシコができなかった私と、できるようになるまでの道のり①

うまい人ほど簡単そうにプレーをする。

そんなプレーを見ると、憧れる。あんな風に蹴ってみたいと思う。

だが、実際自分で挑戦してみると動きはちぐはぐ・ボールは思ったところにいかない・そもそもどんな風に動けばああなるのかがわからない、、と迷宮に陥ることが多々あった。

 

やはりセンスなのか、鍛え抜かれたスポーツマンにのみ成せる技なのかと思って渋々納得する今までだった。

 

だが、YOUTUBEでストリートサッカーの動画をみて見ると、うまい人はうまい。老若男女うまい。

 

私もうまくなりたいと思った。

 

気を取り直してボールタッチに関する技術について考えてみた。

新たな技術の習得には2工程しかないと仮定してみる。

 

1.適切なイメージをもつこと

2.イメージ通りに体を動かすこと

 

理屈でいえば、この二つさえクリアすればよいのだ。

ただし前提として、対象とするテクニックは、筋肉量・関節可動域の許す範囲のものとしなければならない。

いわゆるセンスの良い人は、プロセス1に対する勘が非常に良いのだろう。

 

この仮定をもとに、エラシコ習得実験を行ってみた。

 

まず庶民的なセンスをもつ私は、プロセス1を非常に重視して練習に取り組むことにした。

私がエラシコロナウジーニョの十八番の抜き技)ができないのは、体がうまくうごかないのではなくエラシコをする時の体の動かし方のイメージが全く間違っているのではないか?と疑うことにしたのだ。

今の時代はありがたいことに、エラシコの動画がいくらでもインターネット常に転がっている。

とにかくロナウジーニョエラシコ動画をなんども見ることにした。

まず通常の速さでリピート再生にしてひたすら見た。

するとエラシコゲシュタルト崩壊が起こる。なにがなんなのかわからなくなってくるのだ。

全てを理解することを諦めて、足のステップのリズムだけをまず覚えた。

タンタタン これがエラシコのリズムだ。踏切を通過する電車の音と同じだ。

 

①タン(左足を踏み込み、右足が宙で解放される)

②タ(右足のアウトサイドがボールに触れる)

③タン(右足のアウトサイドがボールに触れ、右足が地面に着地する)

 

リズムはわかった。

 

だが、全然できない。まったく意味がわからないレベルでできない。

普通のキックは、一度振った足にボールが2度触れることはない。

足が一度触れれば、ボールは振った方向に飛んで行くのだ。2度触れるのはおかしい。

通常速度で理解することを諦め、スロー再生することにした。文明の利器に感謝する他ない。

 

スロー再生を穴があくほど見た結果、重心の移動がわかるようになった。

 

①タン 踏み込んだ左足に重心がある

②タ  踏み込んだ左足から宙の右足の進む方に重心がうつり始める。

③タン 踏み込んだ右足に重心がのる

 

まずいと思った。

今までの私は、右足の踏み込みを避けていた。左足に重心を置いたまま、つまり片足立ちでエラシコをしようとしていたのだ。

ここで、習得プロセス① 適切なイメージ を持てていなかったことが判明した。

 

適切なイメージを持てるようになるまでひたすらスロー再生を観察することにした。

 

続きます。

首を太くする方法

小顔になりたいと思った。

脂肪を落としたり、表情筋をつけて顔を引き締めたり方法は色々あるだろう。

ただ、頭蓋骨自体を小さくすることは難しそうだ。

 

けど私は別人になりたい訳ではない。

(本当はなりたい。三船敏郎とヴィンセントギャロになりたい。)

 

ここで思った。顔に対して、首や肩幅が大きければ相対的に小顔に見えるのではないだろうか。

頭、特に顔の横幅と首の太さには理想的な比率があるのではないか

首について考えて鍛えてみようか。

 

顔の幅に対して首が細ければ、若い・幼い・女性的な印象となるだろう。

顔の幅に対して首が太ければ、その逆となるだろう。

 

私は太くなりたい。

目指す太さは決まっている。

写真にうつる自分の首を指で隠すと、理想の首が浮かんでくるのだ。

ちょうどよい太さの首を、指の腹に確かに感じることができる。気がする。

 

私の首は細い。道のりは遠い。

ただ、歩もうが止めようが誰から非難賞賛されるでもない。

ひとりで歩くにはいい道だ。

 

 

正面から見た時の首のアウトラインは、胸鎖乳突筋と僧帽筋で決まる。

ただし、首には複数の筋肉がおり、それらの束として考えた方が良さそうだ。

衝撃の強いスポーツにおいて首のトレーニングは必須なので様々なメニューが確立されている。

 

非常に参考になる。

次回メニューから首を縦にふる×30回、横にふる×30回を追加することとする。

 

他のメニューに比べて回数が少ないのは、怪我を予防するためである。

首を慣れない運動で酷使すると、首の痛みだけでなく頭痛を引き起こしたり神経を傷つけたり、骨に損傷を与える恐れがある。

そもそも首には重要な神経が多く通っているため過度の負荷は決して避けなければならない。怪我した首は、脳と体の橋渡しを放棄するかもしれない。

 

私の筋トレに納期はない。ぼちぼちやっていく。

 

本日より 何もしない を始めました

日々過ごしていて何かが足りないという思いが日々募っていきます。

仕事も生活も大きな不満はないのですが、何かが足りません。

 

太宰治の「とかとんとん」のような気持ちですがあそこまで大きな無気力に包まれているわけでもないし、熱中とはいかなくとも仕事・生活ともに充実していると言っていい日々を送れています。

 

なので、何かをはじめようと思いました。

ところが、何をするにせよやるせない気持ちです。

これだというものが浮かびません。

 

考えてみれば、仕事をして人と喋ってスマホPCを眺めてサッカー筋トレして、、

何もしない時間がないことに気がつきました。

 

そこで私はこれから「何もしない」をしてみることにしました。

単語をあてはめるならば瞑想ということになるのでしょうが、そこまで高尚なものではありません。特に心の安らぎを求めているわけでも、切迫した苦しみから解放されたいわけでもありません。

 

ただ、何もしない

ただそれだけです。1時間でも5秒でもよい。リラックスはしないよりした方がよい。

極端に言えば、生命活動がある限り全ての筋肉の緊張を解くことは難しいですし。

瞑想のような高尚なものではなく、ゆる何もしません。

 

面白いことがあったりなかったりするでしょうが日々 何もしない 自分の記録をぼちぼち更新していきます

 

 

 

私の筋トレの追い込み方

基本的に、心の中でありがとうと叫びながら筋トレしています。

怒りや憎しみをエネルギーにして育てた筋肉は、どうも育ちが悪くなるのではないか?と思うからです。

また、素直にありがとうと思えた時は不思議なほど目的の筋肉以外の緊張が溶けてよく追い込めます。

 

限界からの追い込み時は、ありがとうをthank youなどに言い換えてみます。言い方を変えるだけで随分と気分が変わり、使い切ったと思った筋力を奮い立たせることができます。

感謝の筋トレ

筋トレの追い込み方は人それぞれだと思う。

 

現在の私の筋トレは、器具を使わない。

動作も、肩の上げ下げ、腰のひねりなど非常にシンプルなものだ。

それを100回1Repでこなしていく。

 

不器用な私は、器具を使うのが苦手だ。

だからただの肩の上げ下げに全力投球することにした。

最初の20回は、筋肉の張りを出すための準備運動のような形になっている。

狙った筋肉のみを極力つかうことと、脱力と緊張を瞬時に切り替えることに意識を置いている。

器具をつかった筋トレでは、筋肉を伸展させるときも筋肉の緊張を保ったまま行う場合が多いと思う。

最初は私もそうしていたが、どうも脱力を起こす方が、緊張させることよりも難しいと感じ、また脱力を起こす方が筋肉の疲労度が高いことが体感的にわかってきた。

 

今はただただ動いてくれるこの身に感謝しつつ、ゆっくりとゆっくりと形を変えつつある身体とともに歩んでいこうと思う。