「上手くなりたかったら練習しろ」の落とし穴

忍耐、鍛錬、謙虚、勤勉、克己・・・・

日本には、素晴らしい美徳の数々がある。

農耕の歴史、仏教・儒教、江戸の侍、、日本人の美徳の起源はどこだろう。

非常に興味深いテーマだが、このお題はまた次の機会に考えたい。

 

今回は、サッカーにおける実践へのアプローチについて考えて行く。

タイトルの話に戻るが、私がサッカー少年だった頃は、試合に勝てなかったら「修行が足りない」、「練習不足」と反省していた。

そして自分なりに真面目に「練習」した。だがまた負ける。

行き着くところは「才能がなかった」「センスがなかった」だ。

おそらく学校や家庭でそういう教育を受けていたのだと思う。

今考えると残酷な話だ。私にセンスがないのは特に否定はしないが。

苦しみ、怪我をするもしくは挫折を味わい敗北感を抱えたままサッカーから手を引いた私のような少年は少ないのではないだろうか。

 

勝敗を決めることはスポーツそのもの本質に直結する。

殺し合いをせず、同じ土俵で他者と優劣を決めることができる非常に平和で優れた仕組みだと思う。天才だ。昔の人に感謝せざるを得ない。

だから勝者は栄光を味わって然るべくあり、その逆もまた然りだ。

一方、人間は性別・人種・年齢・環境によってその運動能力にそれぞれの個性があるのも事実だ。

、、それは才能と行っても差し支えないだろう。個々の人間には歴然とした差がある。

 

つまり、勝ちは大事だ。こだわるべきところであり、目指すべきところだし、勝った先にしか見えないものもたくさんある。

しかし、スポーツを通して得られるものは勝利の栄光だけではない。

心身が躍動する瞬間には何物にも変えがたい喜びがある。

思ったことができる。体で表現できる。この喜びは大きい。

つまり、上手いと楽しい。

 

上手くなるにはどうするのか。工程は簡単である。

 

0.上手い自分をイメージできない自分がいる。

1.上手い自分をイメージする。

2.イメージを体で表現する。

 

この工程1,2を習得するために練習をする。

ここでいう練習とは、2つある。

 

練習①:工程0から1を埋める『イメージ力を高める頭主体の練習』

練習②:工程1から2を埋める『体の表現力を高める体主体の練習』

 

である。

ちなみに、サッカー少年団所属の私少年は、そのどちらにも該当しない練習のための練習を行っていた。

集中して、意識して、真面目に、真剣に、忍耐強く、、、

そして、また負けていた。

おじさんの私があの時にもどれたら、少年の私に、『頑張ってるね、効果は薄いけど。』と優しく応援してあげたい。

 

練習①については次回。